■第5回キンボールワールドカップ2009■ 事務局旅日記その7 10月31日(土) 出発の時間になった。みんな少しは無理しているかんじもしたが、なんとかだいじょうぶだった。選手にも今日はホテルで病人の付き添いで残り、大会会場には行けない旨を伝えた。健闘を祈ってみんなを送り出す。 ホテルに残った4名はずっと、ずっと眠っている。起きる気配すらなかった。PJが部屋に来て、ウエブ中継している決勝戦の設定をしてくれかけたが、接続部品がひとつ足りず、無理だった。でもその優しさにとても感謝した。 とりあえず、PJと4名分の食事とドリンクを買いにコンビニまで出かける。サンドイッチと水を買い込んだ。ここでPJとも別れる。 13時ごろ。そろそろ男子の試合だろうなと思って、部屋でテレビをつける。あまり見る気もおきない。1時間間隔で4名を見回りにいっていた。ようやく4名中2名は14時頃起きた。意外といってはなんだが、元気そうでなにより。残り2名は未だ起きる気配なし。 試合が終わったころを見計らって、会場にいる選手団に電話をする。男子は結果3位だったとのこと。試合後はなんだかんだで忙しいので、細かな話はまたあとでと電話を切る。引き続き女子の試合である。 ★今泉副団長男子決勝レポートはこちらからどうぞ。 ★女子決勝レポートはこちらからどうぞ。
このころ、ホテルの掃除の担当の人に、眠っている2名の部屋のドアが閉められ、オートロックで空かなくなった。2名の状態はまったくわからなくなった。 あまりに、ひまなので、日本より持ってきていた本を読みはじめた。でもこれもあまり読み進めなかった。この日は天気もあまりよくなく、ホテルからの風景もぱっとしていない薄暗いかんじの一日だった。 何度めかの休憩の後、本に戻ろうかと思っていた瞬間、今泉副団長より連絡があった。プレーヤ―が倒れたらしい。すぐに会場に来て。ということで起きている2人に会場へ行く旨の連絡をして、急いでタクシーに乗る。タクシーに乗ってすぐ、また電話がなった。ホテルに迎えの者が行くから、引き戻してと。そしてホテルに戻る。 すぐに迎えの者がきてくれた。彼が道中、日本の男子、女子ともにすごかったよという話をしてくれた。延長戦も多かったとの印象が残っている。 15分後に最初に着いた病院は間違い。再度、違う病院に向かう。この街には大きな病院は2つしかないらしい。それから10分後、病院についた。 女子プレーヤ―2名も救急車で運ばれてきていた。1名は車椅子には乗っていたが、思っていたよりは元気そうだった。彼女はすぐに帰ることを許可されて体育館に戻って行った。 もう1名は私が着いた段階では、ひとりで正しく呼吸ができない状態であったが、他のプレーヤ―が献身的に付き添っており、時間とともに徐々に良くなってきた。私が病院についてから約3時間で、まだ若干一人では歩きにくい状態ではあったが帰ることを許可された。 決勝戦終了後の大会会場の模様
ホテルでは19時より夕食会がはじまっていた。会場にそのプレーヤ―が顔を見せると、生還の拍手が起こった。そのプレーヤ―は照れ臭そうだった。 一旦ホテルの部屋に戻る。4名のホテル組の様子を確認。まずまず、元気そうだった。ちょうど部屋に食事が運ばれてきて部屋で食事をとる。ひとりの食事は少々寂しかった。食事のあと、少し休んで夕食会と同じ場所でのパーティに出かけることにした。 10時ごろ。パーティでは各国の話のしたかった人々を探して話をする。当たり前だけれど、キンボールに関わる人はみんなほんとにキンボールのことが好きだ。とても和やかなひと時だった。 さらに時間は過ぎて、踊るかんじの時間帯になってきた。本来、これより前に次回大会の宣伝をする予定であったが、PJに確認したら、だれかが忘れていて残念ながら、宣伝をすることはできなかった。昼にPJと話した時は、カナダから日本へのある種の「聖火」的な受け渡しがあるとのことだったが、それもなかった模様。もっと早くに他の人に確認をまかせておくべきだった。 12時前。残念な気持ちを胸に、団としては明日の出発も早いのでパーティをあとにする。残りたい者は残るということで最後近くまで残った人はいたようだ。 部屋に戻って、スーツケースに荷物を詰めて深夜2時頃、就寝。今日だけ今泉副団長と同室になった。 |